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千葉寺(せんようじ) 真言宗豊山派、海上山。奈良時代の元明天皇(四十三代)の世、千葉郡池田郷を訪れた行基菩薩が、池の中に咲く千葉の大青蓮二輪に霊意を感じ、傍らで休んでいたところ、夢に観音菩薩二体が現れて行基に語りかけ、これに感激し行基は和銅2年(709)観音像二対を彫って同地に安置。その後、聖武天皇に奏聞すると、天皇も感じ入り、ただちに伽藍・僧坊の建立がはじまり、「海照山歡喜院青蓮千葉寺」と勅号を下されたのがはじまりであると伝えられる。その後も千葉宗家の祈願所として大いに栄え、永禄11年(1568)には、千葉介胤富が海上郡海上一円を永代にわたって寄進し、これをもって「海上山」に山号を改めたと伝えられています。天正年中の千葉氏内紛の中で海上郷は収公されたうえ、天正6年(1578)にふたたび火災にあって衰退。さらに小田原合戦ののち千葉氏が滅亡してしまったため、千葉寺は混乱のなかで衰亡の危機を迎えた。これを知った徳川家康は、天正19年(1591)、頼朝以来、源氏に由緒の千葉寺が衰亡させてはならぬと、焼失していた伽藍を再建したうえ、寺領として百石を永代寄進。2代将軍・徳川秀忠も家康にならって千葉寺をたびたび参詣し、元和9年(1623)には観音堂が建立されました。元禄2年(1689)にまた火災にあい、一切が焼失したものの、五代将軍・徳川綱吉や桂昌院(綱吉母)より資材や資金が寄進され再建。将軍家ゆかりの寺院として、多くの参詣者を招き、その参詣路は「千葉寺道」と称されていたという。しかし、明治政府の「神仏分離令」に伴って寺領・境内地の召し上げが行われ、明治2年(1869)にはもはや往時の面影すら見ることができないほど荒れ果て、住職もいない廃寺となってしった。しかし、信徒は次々に増えていき、講が作られて寄進も増え、現在の形に復興した。真言宗豊山派の坂東33か所第29番目の霊で、境内には樹高30m、目通り幹囲8m、樹齢1000年余りという大イチョウがあり、これは鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏よりも大きいと言われています。県の天然記念物に指定されています。
★所在地:千葉県千葉市中央区千葉寺町161 ★交 通:千葉駅からバス千葉寺下車 ★連絡先:043−264−3723
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