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寛永寺(かんえいじ) 天台宗大本山、 東叡山。徳川家康の意を受けた僧天海は,寛永元年(1624)寛永寺創建に着手する。上野が選ばれた理由は,江戸城鬼門に当たり,幕府の鎮護の地として京都の比叡山になぞらえ,またそのたもとの琵琶湖に不忍池を見立てたからだという。つまり天台宗本山延暦寺と対抗できる関東の天台宗本山寛永寺を造営し,幕府の天台宗制覇を実現する意図があった。寛永寺が造営される前は,川越の喜多院を関東天台宗本山としたが,延暦寺とは比ぶべくもなかった。 寛永2年(1625)に本坊円頓院が完成し東叡山寛永寺と命名され,幕府祈祷寺として天台宗総支配の特権が与えられた。寺域は120万平方m(上野公園のほぼ倍),寺領は最盛期に11¸790石に達し,その支配数は祠堂32宇,子院36坊,伽藍7堂といった大寺院であった。寛永寺は延暦寺の伽藍建築を模倣し,堂塔,宿坊を次々と建てていく。元禄11年(1698)には,現在の竹の台付近に,浅草観音堂に似た,これをはるかに凌ぐ巨大な根本中堂を建てた。またこの頃から一般にも開放し,奈良吉野山から植林した桜の名所としても有名であった。また天海は比叡山宮門跡に対抗するため,東叡山にも宮門跡を造ろうとするが,比叡山を守ろうとする後水尾上皇が反対したため,彼の生前には実現しなかった。明暦元年(1655)11月26日,後水尾上皇第三皇子守澄法親王が関東の宮門跡として江戸に下り初代輪王寺宮となる。輪王寺宮は日光東照宮と上野両門主を兼ね,以後明治維新の第十五代公現法親王に至まで続いた。当時の輪王寺と寛永寺の関係は,寛永寺の住職というべきものが輪王寺宮であり,東叡山御門主とも呼ばれた。 元禄11年(1698)9月6日,霊元法皇筆の勅額到着の翌日,新橋南鍋町からの出火は,延焼10kmにも及び,上野山内にも燃え広がり,完成したばかりの中堂は焼失してしまった。直ちに再建され,宝永6年(1709)竣工,しかし上野戦争(1868)で焼失してしまう。そして幕府方の寛永寺は,その広大な境内を新政府に没収されてしまう。その大半はオランダ医師ボードワンの意見により上野公園となる。現在寛永寺は,鶯谷駅の西側にあるかつての子院・大慈院があった地にある。大慈院は,かつて最後の将軍慶喜が朝廷に恭順の意を表すために謹慎した場所としても知られている。写真の本堂は,明治12年(1879)に川越の喜多院の本地堂を移築したもので,寛永15年の建造と伝えられ,すべて素木で造られている。内部構造は中堂造と呼ばれる天台宗独自のもので,本尊の薬師如来像が安置されている。
★所在地:東京都台東区上野桜木1-14-11 ★交 通:上野駅から徒歩5分 ★連絡先:03−3821−4440
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